よくあるご質問/お問い合わせ

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(メアリーウェディング株式会社)

よくあるご質問

教会では礼拝や定期的な集会、それに事前に計画した特別なイベントのほかは何もしていません。ですから教会の働きについては、むしろ牧師の働きを知ることでご理解いただけるのではないかと思います。牧師にとって最も重要なのは毎週日曜日の礼拝説教です。礼拝にベストのコンディションで臨むため、私は1週間かけて心身ともに整えるよう心掛けています。風邪をひいたからといって礼拝を休むわけにはいきません。家族も牧師の生活を理解していますから、煩わしい問題や争い事などは、とくに週末近くには避けるよう気配りしてくれます。週1回の礼拝のために説教原稿を書くのは、私にとって1冊の本を書くのと同じ労力が必要なのです。

また日々、霊的にも整えて神様との交流をさらに深められるよう神経を使います。聖書を読み、長い時間祈り、信徒の信仰成長のために必要な情報を蓄えるよう努力を怠らないようにします。説教は聖書の講義ではなく神様の新しいメッセージを人々に伝達する仕事ですから、自分自身が常に聖霊に満たされていないとできない働きだと思っています。礼拝で話す言葉を忘れ、会衆の前に立ちすくんでいる自分の姿を想像するだけでゾッとします。ですから信徒の方々にはそのような牧師の働きを理解して、煩わしい問題を教会に持ち込まないよう気遣いしていただけるとありがたいですし、それがまた教会の霊的な成長につながるものだと信じています。

礼拝説教以外に、信徒たちの個人的な信仰成長を助ける集会や、カウンセリング、新たに信徒をおこすための集会や文書伝道、他の教会との交わりや海外宣教など、牧師の働きもいろいろあって、牧師それぞれの賜物や教会の環境に沿った伝道の日々を送っています。

さらに詳しくはこのホームページをお読みいただければ幸いです。ご質問感謝いたします。(みやけ)

新、旧約聖書は、その全巻をとおして主イエス・キリストが救いの神様であることを説いたキリスト教の聖典です。とくに新約聖書の中の4巻の福音書には神様が人々を招き、救いに導く主イエス・キリストご自身のお言葉がたくさん書かれています。何の助けも無くひとりで聖書を読まれても、分かりにくい部分があったり、また誤った理解をしてしまうことも多々ありますから注意が必要です。教会などで牧師の解き明かしを受けながら学んで行かれるのが良いと思います。

ぜひ聖書から素晴らしいキリストの信仰の世界を知って下さい。ご質問感謝します。(みやけ)

信仰の世界で言う罪とは、とくに宗教的な罪の問題を指しています。たんに人を傷つけたとか、法律に触れたというようなこととは違います。勿論だからと言って、この世的ないかなる罪も断じて認めるものではありませんが、信仰における罪の問題は、聖霊の光に照らされて初めて「神様の聖」とともに理解されるようになっているのです。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一 1:9) 

キリスト教の信仰は、罪が赦され、神様の子供になるという、罪からの救いの信仰です。主イエス・キリストが来られる以前、旧約の時代には、罪の赦しを求めて、人々は生贄の血とともに礼拝を捧げてきました。新約の時代になり、神がこの地上に送ってくださった御子イエス・キリストは、私たち人間の罪を贖う生贄として十字架にかかり死なれ、三日目に甦って永遠の命の希望となってくださいました。

キリスト教の信仰は、自分の神様に対する罪を認め、その罪が主の十字架によって赦されたこと、そして自分も神様の子供になったことを感謝する信仰なのです。

信仰によって罪は赦されます。どうぞご遠慮なく扉をたたいてください。ご質問感謝いたします。(みやけ)

福音とは「良い知らせ」という意味で、英語の「Good News」や「Gospel」、ギリシア語の「Evangel」と同じです。この「福音」は人を喜ばす話題やニュース全般を指すものではありません。それは主イエス・キリストの救いを表す特別な意味にのみ用いられる言葉なのです。

生まれながら神様を信じている人はひとりもいません。突然、神様の恵みによって、人生の途中で神様の存在を知るのです。思いがけずに神様に受け入れられ、神様の子供になったことを知らされ、永遠の命を授けられて神様の国へ行けると信じる者にとって、「福音」はビッグニュース、良きおとずれのお話なのです。

聖書にある福音書をぜひお読みくださり、救いの神と出会っていただきたいと思います。ご質問感謝いたします。(みやけ)

主イエス・キリストご降誕から2千年以上を経た今も、キリスト教が多くの宗派や教派を抱えひとつになれない理由は神学的な問題にあります。その相違点のすべてを説明することはここではできませんが、ひと言で簡単に言うと、カトリック教会は「神の国の門を開く鍵、権威を持っている」と主張し、プロテスタント教会は「聖書の言葉にのみ神の権威がある」と主張します。その違いは、パンと葡萄酒による「聖餐式」を中心としたミサを行うカトリック教会に対し、聖書の言葉の解き明かしである「説教」を中心にした礼拝を行うプロテスタント教会といったところにも現れています。そのほか、プロテスタント教会が「聖餐と洗礼」の二つの聖礼典のみ認めるのに対し、カトリック教会には「洗礼、堅信、聖体、赦し、病者の塗油、叙階、結婚」という七つの秘跡があります。プロテスタント教会では神の召命を受けた牧師が、神の御言葉を伝え、神の羊(信徒)たちを養う使命を負っています。いっぽうカトリック教会では叙階の秘跡を受けて認められた神父に、秘跡を中心とした信徒には無い権能が与えられます。告悔(赦しを得るための儀礼、ざんげと呼ばれたりします)があるのはカトリック、マリアなど特別な功績のあった人物を聖人として崇敬するのもカトリックの特徴です。

16世紀に起こった宗教改革運動によって枝分かれしたカトリックとプロテスタントですが、イエス・キリストを救い主と信じ、創造主なる父なる神とそのひとり子イエス・キリスト、聖霊なる神を三位一体の神と信じる信仰は同じです。ところで「麻布セント・メアリー教会はカトリックじゃないの?」と尋ねられることがあります。その名前の意味からすれば当然の疑問かもしれません。しかし、名前はともかくここはプロテスタントの信仰によって支えられています。「それなら名前を変えたほうが良いのでは」というごもっともなご意見もありますが、せっかく皆さんに慣れ親しまれている名前ですし、当面は今のまま「神を愛し、神に仕え、人を愛し、人に仕える教会」としてご用をまっとうすることに全力を傾けたいと思っています。ご質問感謝いたします。(みやけ)

正統のキリスト教会と異端宗教の大きな違いを簡単にご説明しましょう。正当の教会は使徒信条をもって信仰を告白し、聖書の言葉を信じ、また聖書の言葉に基 づいた生活をすることに努めます。また信仰の愛を重んじて、神と隣人を信仰的愛で尊ぶことを強調します。いっぽう異端宗教の特徴は、カリスマ的な教祖を中 心にして、信徒に脅威を与え、霊的現象をことさらに強調します。そこには主の恵みも愛もありません。

教会と書かれた看板を見ていきなり飛び込んで も、そこが良い教会か悪い教会かは分かりにくいものです。異端宗教だと気付いたときには手遅れの場合も多いのです。教会を選ぶときには事前に信頼できる方 の意見を聞くのも良いでしょう。どんなに立派な教会でも、ご自分との相性というものもありますので、よく祈って主の導きを仰ぐことが大切です。

ご不安をお持ちになったらいつでもご一報ください。ともにお祈りいたしましょう。ご質問感謝いたします。(みやけ)

大まかに言うと礼拝は「賛美」「祈り」「聖書の御言葉とその解き明かし(説教)」から成っています。説教の中身は説教者によって異なりますが、いずれも信仰者の成長を助けるものです。

礼拝は信仰者にとって神と自分との命を繋ぐパイプのようなものです。礼拝を抜きにして「神とは何ぞや」とは考える余地もありません。しかし神を求め始めたばかりの人にとって、説教を理解することはときに苦痛を伴う場合もあります。まずは求道者会とか礼拝準備会に出られるのが賢明だと思います。教会のさまざまなイベントに参加するのも良いでしょう。

教会の扉はいつでも開かれています。気軽にお訪ねください。ご質問感謝いたします。(みやけ)

洗礼を受けることは信仰告白であると同時に、正規の教会員として教会との約束を守るという意思表示でもあります。教会の規約を守り努める確信を持ち、牧師に認められて洗礼を受けるなら、神にも他の教会員たちにも祝福される、生涯一度の素晴らしい洗礼式になるでしょう。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇 133:1)

ご質問感謝いたします。(みやけ)

献金はほどこしや慈善、寄付行為とは違います。献金は神への感謝の表現であり、信仰から発生した愛の行為です。それはまた、教会を維持管理する責任を担うという意味も持っています。ですから信仰者でない人に献金籠が回って来たからといって捧げる義務はありません。しかし信仰者でなくても、生活に困るほどの金額でなければ捧げても良いと思い、聖いことをしたと喜んでいただければ幸いなことです。

信仰の捧げ物は神からの祝福を信じる証として、ときには信仰者の信仰のバロメーターになることがあります。と言っても多くの捧げ物をした人がより深く正しい信仰を持っているという意味ではありません。捧げ物に関する聖書の言葉をいくつかご紹介いたしましょう。

このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。(歴代誌一29:14)

長寿に恵まれ、富も誉れも満ち満ちて亡くなったといわれるイスラエルの王ダビデはこう言っています。ダビデ王は自ら進んで金銀や家畜を主に捧げ、王の民もまた進んで捧げものをしました。それはときに夥しい数であったと聖書に記されています。

十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。(マラキ書3:10)

よく教会では聖書の記述を引いて「献金は収入の十分の一が目安」と言ったりしますが、現実にそれを実行できる方は少ないように思います。「収入って税引き後でいいの? 健康保険は? 家賃や必要経費は控除していいの?」といろいろ悩む方もいらっしゃるかもしれません。新約聖書には次のような記述があります。

イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは1コドラントに当たる。(1コドラントは当時のローマの入浴料1回分だったと言われています)すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコによる福音書12:41-44)

捧げ物を喜ばれ、「天の窓を開き祝福を限りなく注ぐ」と約束をしてくださった主は、捧げた人の信仰を見て良しとして下さいます。ですから捧げる行為と信仰の告白は切っても切れない関係にあると言えます。ご質問感謝します。(みやけ)